追悼 2  「鈴韻集」から
「バスの太いお声」  平 野 榮 助 
  先生にお世話になりましたのは大正9年の夏、鞍山製鉄所の製造課長としてご赴任になりまして以来の事で其の頃先生の頭髪や髭は既に半白で始終童顔に微笑を湛えられ後進の者を指導して下さいました。当時先生はご家族を大連に残され鞍山小学校の前の方に独身生活をして居られました。拙宅が近所でしたので時々お邪魔して種々のお話を承りました。白ネルの寝衣等着られ無造作な御様子で沢山の洋書や洋酒の瓶の雑然とした中で談論風に発せられるご様子は確かに異彩を放って居ました。梨の花の咲く頃、家族会があった時、先生はホテルのボーイの御扮装でビールを注いで廻られ箱型の古いカメラでみんなの写真を撮影して下さいましたが私等新婚の夫婦者は大分恐縮しました。こんな訳で先生と弟子共の間柄は非常に和やかなもので仕事上の事では私等若輩の申上げる事でも決して軽視される様な事もなく意見をお聴きくだされた後に該博なる学識を以て平易に説明して下され、最後に喉の奥の方から太いバスでお笑いになりました。今になって見ますとその太いバスこそ私の一生のなつかしい思い出となりました。先生の頭脳は良質の鐘の様なもので、叩き方に応じて何時も良く鳴りました。アップレビー氏を団長とする米国学者の一行が鞍山の視察に来られ、私も分析の御手伝いをさして頂きましたが、成績上の事で立会い分析なんかして当時私は若気の至りで先生の意の在るところも知らず頑張りまして学者方を大分手こずらしましたがそれでもお叱りを受ける様な事もなく無事に収めて下さいました。しかし今考えますと冷汗ものものでした。

 鞍山時代に石灰岩の分析を致しました時、苦土<酸化マグネシューム>の含量が非常に多いので判断に困り先生にお伺い致しましたところ、これはマグネサイトだとの事で直ちにこの方面の調査を進められたようでしたが先生の御着想は非凡なもので後進の技術を生かして使ってくださいまして非常に愉快に仕事をさして頂きました。

 その頃より私は身体を損じ結局、鞍山を退職して内地へ静養に帰りましたが、先生も大正12年の春、理研へ転出されました。やがて大震災が勃発し、私は家庭や健康上の事を考え東京へ出て、何か復興のお役にたてばと思い先生にご相談致しましたところ、川口の燃研にお世話下さいました。その後17年余理研へ或いは林町のお宅へは時々お伺い致し先生のご高風に接し学術上の事は勿論人間的にも非常に先生や奥様から啓発せられる所が多くありました。何時お訪ねしても穏やかに良くお話くだされ前後20数年間、随分ご面倒をお掛けしましたが一度も嫌なお顔をされる様な事はなく先生の御人格は和やかな春の海の様に全てを包容して下さいました。

 こんな訳で先生には甘ったれる気分もあって時として詰まらぬ愚痴を申したり先生を煩わしたりした様な事もあり、今考えますと全く恐縮ですが何事でも良く聞いて下さいました。家庭に於ける先生は良き父、良き夫で在られました。末のお二人のお嬢様が御幼少の時等種々のお話をユーモアを交えて幼児にも良く判るようにお話をされるのを時々側でお聞き致しまして成程なアと思われる様な事もありました。お食事を戴く様な時には何時もご家族ご一緒で特別に私の為にご馳走して下さる様な事もありませんでしたが家族的で先生のお相伴にご秘蔵の葡萄酒などを頂戴する時等全く楽しく愉快な思い出となっております。失礼してお暇する時は冬はオーバーを暖房で暖めて置いて下さる様な訳で何時も先生御一家の御温情で身を包まれて帰る様な気がしまして非常に導かれる点が多くありました。ウルトラジン眼鏡の発明をされた時、近視用の同眼鏡の製作をお願いしました所、暫く経って「これは度のついたウルトラジン眼鏡の最初のものだ」と言って下さいました。相当お手数をおかけ下さったらしく恐縮して有難く頂戴致しましたが温情溢れる先生の良きお形見として大切に保存しています。

 昨年1月6日にお年賀のご挨拶に参りました時、持病の糖尿病も軽快に向われたとのお話でお顔も引締まって見えご健康の様子でした。私がかつて再渡満を決意し、お願いしても、先生は既に支那事変の将来を予言されお許しがなく、この度の満州更鉱発鉱業試験所への転出を非常にお喜びくだされ、激励して下さいましたがこれが最後のお別れだとは誰が予期し得た事でしょう。この渡満に際しては東大付属医専に在学中の次男を預かって頂く所がなく火急の場合とて閉口致しておりました時、奥様は見兼ねられてか「適当な所の見つかるまでお預かりしましょう」と言われそのご温情におすがりすることになり、父子二代に亘って先生御一家から溢れるようなご温情を頂戴しまして私共は何と感謝して良いか判りません。何時までも先生並びに御一家のご高風をお忍びして家訓とし、ご高遠なるご遺志の一端を継承して満蒙資源の開発に微力を捧げたいと存じます。    <一部文章を割愛変更させて頂きました>
「合成ウイスキー」 三 田 正 揚 
 先生が満州の資源の各方面で先見の明ある研究をされ今日盛んな資源利用化学工業の種々の実験が一度は先生の手にかかった事など書かれる方が多いと思われるので私は先生の実験室風景の二・三を記しその昔を偲びます。
 先生が光電池の実験をされた事がありました。満州は太陽の光の普く所であるからこの熱を利用しなければならないがこれを電気として蓄えしかもその材料は卑金属<空中に放置すると酸化されやすく水分・二酸化炭素などにより容易に侵される金属>類の安価、多量のものを採るのだと暗室の中に装置を造られ、電圧計と電灯と電池とを睨めくらをして大きく動くと髭をピンと動かしてニコニコして居られた。

 あの頃は電熱もなかなか良いものがないのでバーナーに足踏みフイゴで一生懸命高温を造り溶融宝石のルビー、サファイア、アレキサンドライト等と目も鮮やかな溶融物がころころ机上に置かれ、気に入らないものはいくらでも頂戴してしまった。
 礬土頁岩<酸化アルミニュームの粘土が固まって出来た水成岩>の発見の時も我々があの頁岩を見出し分析して議論していた時来られ、これは大したものだと早速実験に取り掛かられ且つ世に紹介する事に努力されました。満州事変の時、ホール鈴木法が採り上げられその後幾多の後継研究者に依って今日の日満のアルミ製造の飛躍的発展の源をなした事でした。
 写真の実験に熱中され初められた当時、先ずゼラチンを溶かして乾板に塗る事から始められ次に色素を捜してフィルターを造り、白昼顕像をし、暗室で乾板を造り、原紙を造る事をされる。それが実に手際良い。つまり前夜のやり返しをして教えられるのでした。生来不器用な私など必ず失敗し大抵はお余りを頂戴しました。こうして旧式のカメラで、おしまいにはピンホールカメラを自製して写真を撮られ、また原紙を造って焼き付けておられました。この中の一枚が先生の著書写真化学の第50頁の挿絵の原画であると記憶しております。

 先生は空を眺める事がお好きで夏の夜など浴衣がけで涼む頃、若い者を集め、満州の夕の良いのは実にこの晴れ渡った空の星をみる事にあると空の星を指して説明され薄暮の黄道光はあれだ等とわざわざ街外れ迄出かけたりしました。しまいには小さな望遠鏡をお買いになり、街外れの原の中にコンクリートの壕を造り星を見て若い者や近所の子供等に説明しておられました。

 先生は鞍山に於ける化学工業百貨辞典で、判らぬ事は先ず先生に聞いてから調べたものでした。先生の博覧強記の一例として一寸見当の付かぬ事をお聞きしても「ああ、そんな事は何の本の何頁にあって、大連の書庫のどの辺にあるよ」等と言われる。行って真っ直ぐに進みその本を出して第何頁を開くと立派な説明が書いてあるというような事も再三あった事なのでした。

 先生は酒がお好きであった事もよく知られてますが、呑む程にニコニコなさり、興至れば先ず「寒山寺」の詩吟が出る。その朗吟は南方音によった実にこの酒と調和した音律を持ったものでした。次には「李白」「杜甫」「白楽天」等の名詩が低い音調で上唇を一寸出され、髭をピンとはねられ朗吟が続き、私達は陶然として拝聴するのでした。先生のお宅には酒の豊富な時代でも「ヨキサケ」が待ち受けており、洋酒などもあるという訳でした。それでもコウリャン酒というものは「ヨキサケ」とは言えない物ですが桐の炭で漉して調合をして鈴木製ウイスキーを造って出される事があるので皆得意で居ると下駄の炭で漉した等とのお話で皆は胃の腑に砂が残るような顔をしているとご説明がある。臭味を取る為に桐の下駄を漸く捜して買って来られて炭を造られたのでした。そんなご説明が終わると面々感心の押し売りをするのです。そして鈴木式合成ウイスキーは若き者の胃の腑へ遠慮なく流れ込みます。先生は汗を拭き々々調合に忙しいのです。足らずにコウリャン酒を買いに若い者が走るという事もありました。

 こうした天真爛漫な先生は決して技術政治家ではなくして何処までも科学者、むしろ憂国的学者として終始されたのではないでしょうか。あの時代の満州の資源と化学工業とを思う時に、あれも、これも手をつけなければと一途に焦慮された事もあったに相違ありません。あの手際のよい実験をされる先生であるから進みの遅いのもまどろこしかったに相違ないと思われます。私達がもっと勉強しなければと先生の考えられた仕事に何分の一も受持っていなくても考える中に時が経つのは誠に慙愧に堪えない事です。先生がもう少し居られて更に奇想天外的な、そして手際のよい成果を挙げて頂いたらと今更思われる次第であります。

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